1990年に遅咲きのデビューを果たし、この「ゲット・ヒアー」で全米シングル・チャートTOP5の実績を持つシンガー、オリータ・アダムス。ティアーズ・フォー・フィアーズのローランドとカートに見出されたというエピソードはあまりにも有名だが、事実はよく言われているようなシンデレラ・ストーリーとは少し異なっている。
オリータは、5歳の時から聖歌隊で歌い、11歳の時にはすでにピアノの弾き語りを始めていたというほどの実力派。しかし、そんな実力派が“埋もれてしまう”のもよくある話で、彼女はニューヨークやLAをクラブ・シンガーとして転々とするうちカンサス・シティに落ち着く。そこのクラブには、コンサートを終えたアーティストたちがよく顔を出し、みんなが「君の歌は素晴らしい」とほめたそうだ。レコードを作ろうという話もいくつもあったが、どれも実現せず。ある時などは、ジョージ・ベンソンの紹介でアリフ・マーディンとデモを録り、アトランティックに売り込みをかけるところまでいきながら駄目。“みんな口先ばかり。もう踊らされるのはやめよう”と、オリータは思ったという。ティアーズ・フォー・フィアーズが声をかけてきたのはそんな時だったから、最初は彼女も“話半分”くらいに考えていたようだ。
ところが、ティアーズ・フォー・フィアーズのローランドとカートの申し出は、自分たちのアルバムにバックアップ・シンガーとして参加することとツアーへの同行を求めたもので、二人はレコーディングをひかえた忙しい身だったが、ロンドンからカンサスまでわざわざ彼女に会うためだけにやって来た。その熱意にほだされ、オリータは彼らのレコーディングに参加することを決意したのだった。この時オリータはすでに30代半ばになっていたが、あとはもうトントン拍子である。ティアーズ・フォー・フィアーズの「シーズ・オブ・ラブ」の大ヒット、ツアーの大成功、ソロ・デビュー・アルバムのレコーディング、そして「ゲット・ヒアー」の大ヒットと進んでいくことになる。
このような才能が登場したとき、アメリカのレコード会社は柳の下のドジョウを5匹は探すものだけれど、このときばかりはもっとシビアな騒動に発展した。つまり、オリータのような才能に接していながら発掘できなかったアメリカのA&Rマンの無能が叫ばれたのだ。特にブラック/アーバン系の分野では担当役員のクビが飛んだり、A&Rマンがすげ替えられたり。音楽マスコミも皮肉たっぷりに“イギリスが発掘したアメリカの才能”と、はやし立てたりもした。そんなこともあって、「ゲット・ヒアー」に対するアメリカの業界の巻き返しは強烈で、いつの間にかアメリカっぽいシンデレラ・ストーリーのみが残ったという雰囲気だ。
ところで、この「ゲット・ヒアー」、欧米ではヒット実績以上に心に残る1曲となっている。この曲がちょうどヒットし始めたときに湾岸戦争が始まり、91年1月20日にはイラク軍に捕らえられた多国籍軍の捕虜の映像が全世界に放送されて反イラク感情が世界中にわき起こるなか、チャートを上昇していった。「ゲット・ヒアー」は、捕虜の無事を祈り一刻も早い帰還を願う歌として連日ラジオで放送されたのだった。特にアメリカのTOP40ステーションでは、湾岸戦争の戦況や周辺情報と捕虜の安否確認のニュースを伝えるたびに捕虜やその家族に体する祈りと激励の曲としてこの曲を流し続けたし、無事捕虜が解放された際にそのニュース映像のバックにこの曲を使用する曲もあった。♪帆船でもマジック・カーペットでも、アラブの男のように砂漠を越えてキャラバンでも、どんな方法でもかまわない。ただ来てくれさえすれば♪という歌詞に因るところが大きかったのだろう。
その後、ティアーズ・フォー・フィアーズは、ローラードとカートが別れ、オリータとも没交渉になってしまい、オリータのアルバムはスチュワート・レヴィンやマイケル・J・パウエルの手に委ねられた。素晴らしい歌声には磨きがかかっているものの、ポップ・チャートの観点から見れば、“卒業”したとも言えそうだ。
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