1979年6月、無名の新人がビルボード・シングル・チャートの頂点に立った。アニタ・ワードである。彼女のデビュー曲「リング・マイ・ベル」は、発売当初から売れ始め、あっという間にNo.1になった。ゴスペルのコーラス隊出身で、いわゆる歌い上げパターンのボーカルを得意としていた彼女が、一躍ダンス・フロアの主人公に躍り出た瞬間であった。
ところが、じつはこの曲、元々は当時11歳になったばかりの天才少女歌手として業界が争奪戦を繰り広げていたステイシー・ラティソーのために書かれたものだった。
この曲の作者はフレデリック・ナイト。ブラック・ミュージック界に君臨する大物で、コンポーザーでありプロデューサーであり、シンガーであり、マネージメント・オフィスの経営者でもある。フレデリックが自分のプロダクションにステイシーを迎えるべく活動している最中で、フレデリックはこの曲をステイシーのデビュー曲として用意していたのだ。その内容は子どもたちが電話で交わしている、他愛のない会話を歌にしたものだった。ところが、ステイシーは別のプロダクションにとられ、この曲はお蔵入りとなった。
一方、アニタのほうはゴスペル色の強いデビュー・アルバムを制作し終わっていたが、プロデュースを担当したフレデリックが「まったりとした曲ばかりではヒットが見込めない、あと1曲アップテンポの曲が必要だ」と主張し、この曲を引っぱり出してきたのだった。ただ、アニタはすでに22歳。子ども同士の電話の会話では、あまりにも無理がある。そこで、フレデリックが大人バージョンに歌詞を直して録音したのがこの曲である。フレデリックの思惑は見事に当たり、この曲に引っぱられてデビュー・アルバム『ソング・オブ・ラヴ』もトップ10に入るヒットを記録した。アップテンポと言える曲は、アルバム中この曲だけだったにもかかわらず、だ。
さて、大人向けに歌詞を直してヒットしたこの「リング・マイ・ベル」だが、アニタ・ワードは当初、何処の誰だかがよくわからず、謎の新人歌手といった雰囲気を漂わせていたからだろう、この歌詞が曲解されることになる。子どもが歌えば「私の電話を鳴らして」「私に電話して」というそのままの意味だが、ある地域では「ベル」というと隠語で女性の秘部を表す意味もあったから、「リング・マイ・ベル」は隠語的にいうと「私の秘部を鳴らして」つまり「私を感じさせて」となる。それが一部のアメリカ・メディアで伝えられると、その部分だけが誇張されて日本に伝わった。だから、日本では一時「セックス・シンボル、アニタ・ワードが歌う官能のヒット曲」といった扱いで紹介され、歌詞をすべて隠語で表現してポルノ小説まがいの解釈を行うメディアも出たほどだ。そのせいかどうか、この曲を女性からのセックスの誘いの歌として一部では大評判になったりもした。
日本においてこの曲は、おもにディスコでのヒットになった。アメリカでNo.1を獲得する前から日本のディスコ・フロアではこの曲がさかんにオンエアされ、ヒット状況が作られていた。そこに、新宿・渋谷のディスコを中心にある流行が起こり、一気に火がついていった。その流行とは、小さなベル型のキーホルダー。もとはと言えば、当時のレコード会社がノベルティのひとつとして各ディスコに配布したものだが、それをディスコの常連客たちが腰に付けて踊り始めた。当然、曲に合わせて降られる腰の動きにつられて、このベル型のキーホルダーがチリンチリンと音を出す。それが可愛いということで、あっという間に広まり、全米でNo.1になった頃には全国のディスコで「チリンチリン」パフォーマンスが展開されていた。
この曲のプロモーションにはもうひとつ、笑えない笑い話がある。先のベル型キーホルダーもそうだが、この曲をラジオでオンエアするための意識付けのノベルティとして、「鈴虫」が考案された。カゴに入れた鈴虫を配布して、チリチリと鳴くたびにこの曲を思い出してもらおうというわけだ。当時のレコード会社CBSソニーに、ある日300におよぶカゴが搬入された。中には、生きた鈴虫が入っている。その日以来、ラジオの担当者には出社と同時に鈴虫にエサをやるという日課が追加された。毎日毎日、飼育を繰り返しつつ、少しずつラジオ局に配布したのだが、地方向けにまとめてエア便で送ったため、地方営業所に到着したときには大半が死んでいたという。さらには、社内からも鳴き声がうるさいとか、エサが腐って臭いという苦情が相次ぎ、極めて評判の悪いプロモーションになってしまったのだった。
命を粗末にしたバチが当たったのか、全米No.1の割には、日本でのオンエアはいまひとつだった。
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