Vol.39 シニード・オコナー「愛の哀しみ」 2011.4.16

「愛の哀しみ」はシニード・オコナーにとって人生を一変させる大ヒットになった、と1990年度のTVアワードの報道は伝えている。というのも、シニードは87年にイギリスで『ザ・ライオン・アンド・ザ・コブラ』というアルバムでデビューを果たしているものの、そのメッセージは批判的な内容で一般にはウケることなく、コア向きなアーティストに過ぎなかった。が、90年に発表したアルバム『蒼い囁き・I DO NOT WANT WHAT I HAVEN’T GOT』では一転して“静謐なサウンド”を作り、プリンスが85年にザ・ファミリーのために書いたこの「愛の哀しみ」をSOUL II SOULのネリー・フーパーと共同プロデュースしてシングルカット、全米・全英ともにNo.1にしてしまったのだから。しかも、MTVアワードでは年間最優秀、最優秀女性、最優秀ポスト・モダンのビデオ賞を獲得。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでスターダムにのし上がったからだ。

 もっとも、この曲のヒットは人生を一変させるだけでなく、シニードの奇人ぶりを浮き立たせることにもなった。彼女自身にとっては奇行でもなんでもなく、ただ自分に正直な言動をしただけだったが、アメリカの業界は当時23歳のこの女性に振り回されっぱなしとなった。

 そもそも、この曲がヒットする下地は、リリース前からあるにはあった。89年のグラミー賞ではベスト・フィメール部門にノミネートされ、授賞式では「アンディカ」を歌って実力を知らしめているし、アルバムのリリース前には「ハッシャ・バイ・ベイビー」というアイルランド映画に助演女優として出演し、サントラ曲のプロデュースも担当。アメリカでブレイクする前にはBBCチャートのトップを独走という“キャッチコピー”もあった。

 だから、ヒットしたこと自体は当然という受け止められ方だったが、その後が大変だった。まずはMTV授賞式で検閲問題に対し“人種問題と同様の悪行”と切って捨て、ミュージシャン仲間からは賞賛されたものの、アメリカ当局のブラック・リストにのることになり、またアメリカ国内のイベントに際し「自分はアイリッシュだからアメリカ国歌を歌うことはできない」と頑に拒否し、業界内部の保守派にも嫌われ始める。そして、MCハマーとの大舌戦に突入した。

 当時、こちらも飛ぶ鳥を落としまくっていたMCハマーは、自己を貫くシニードを“単なるワガママ娘”と見ており、「国歌も歌えないようなヤツは、さっさとダブリンに帰れ。何なら飛行機代はオレが払ってやる」と毒づいた。するとシニードは本当にダブリンに帰り、チケット代36万円の請求書を彼に送りつけた。ビックリしたMCハマーは、言い出してしまった手前引くに引けず、36万円を肩代わりにしている。ところが、数ヶ月後、シニードは涼しい顔でLAに舞い戻ったのだ。怒るMCハマーに対して、彼女は「誰にも私の行動を規制できない。LAに私を必要としている人がいるから来ただけ」とかわした。

 さらには、返す刀でエアロスミスに対して「彼らの音楽は暴力礼賛主義を煽り、若者を堕落の道へ引きずり込むもの。ブードゥー思想をも助長する危険な音楽」と批判。スティーヴン・タイラーをあきれさせている。この発言は明らかに間違った調子外れのもので、これをきっかけにアンチ・シニード派にまわった業界関係者も多かった。

 その後も問題発言を繰り返し、引退宣言まで行ったが、めげることもなく、その後もアルバムをリリースし続け、レーベルを渡り歩きながらも、2000年6月にはアルバム『生きる力:FAITH&COURAGE』で復活を遂げている。ただ、メジャー・マーケットでの成功という観点から見れば「愛の哀しみ」が彼女にとって唯一のビッグ・ヒットであり、“一発屋”のありがたくない称号を付けられることになった。

 この大ヒットが「彼女の人生を一変させる」大ヒットという報道は、当然その後に輝かしいチャート・ヒットの連続を見ていたのだが、エキセントリックな言動が目立ってしまったという、別の意味で人生を一変させた曲になってしまったのだった。