ガゼボ。発音通り表記すれば「ガズィーボ」ということになるのだろうが、このイタリア人歌手の名前が、ここ日本でさかんに取り上げられたのは1984年のこと。
資産家のイタリア人外交官を父に持ち、その父の赴任先レバノンのベイルートで生まれ、各国を転々とする少年時代を過ごし、父の赴任地がイタリアになったことでローマに落ち着いたときにはもう彼はハイティーンになっていた。もともと良家の子息、いわゆる金持ちの坊ちゃんだった彼は、「遊び」で音楽を作り始めるのだが、そのうちピエール・ルイジ・ジオビーニと名乗る作曲家と知り合い意気投合。ここから彼の音楽活動は遊びの域を出て、着々とプロへの道を歩み始める。本格的なデモテープを作ってからデビューするまで、わずか半年。デビュー・シングルのリリースから3ヶ月でイタリアのヒット・チャートのトップに輝くというインスタント・サクセスぶりを示した。その後も、彼の快進撃は止まるところを知らず、2ndシングルとしてリリースした、この「アイ・ライク・ショパン」が83年10月にイタリアでトップになったのを皮切りに、スペイン、ベルギー、フランス、ポルトガル、イギリス、西ドイツ(当時)、ルクセンブルクでも次々ヒットを記録し、イギリスで最も権威のある雑誌「ミュージック・ウィーク」誌が選定する「ヨーロッパで最もヒットしたアーティスト」の大賞を射止めている。
ガゼボが日本でデビューを飾ったのは、こうしたヨーロッパでの成功を受けてのことだった。ガゼボの所属レコード会社はイタリアのベイビー・レコードという、その名の通りの小さななレーベルであり、日本や北米とはコネクションを持っていなかった関係で、日本での紹介が遅れたのだ。ガゼボの背後にはドイツ人の法律家と、香港系のマネージャーがついていて、日本での契約を慎重に検討した結果、彼らにとって唯一パイプのあったCBSソニー(当時)が獲得に名乗りを上げ、83年も押し詰まった12月、ようやく日本での契約がまとまった。レコードのリリースは翌84年。時まさにMTV全盛時代で、日本の洋楽界はMTV経由のロック&ポップスが幅を利かせていた時代だ。ガゼボにとって、決していい環境とは言えなかったが、ひとりの日本人アーティストがガゼボに注目。その後のヒットの流れを決定づけることになる。それが松任谷由実、その人であった。
ユーミンは日本でガゼボのレコードが出る以前、イタリアに旅行したおりにこの曲に触れており、気に入って、わざわざ日本語の歌詞をつけて、日本語によるカバー・ヴァージョンをリリースしようと計画していた。それも、友人の小林麻美の再デビューを飾る曲として用意されていたのである。それが「雨音はショパンの調べ」というタイトルがつけられた、ご存知の大ヒット・ナンバーだったのだ。ちょうど、小林麻美の再デビュー・プロジェクトがCBSソニーの邦楽セクションであったことが幸いし、小林麻美とガゼボのプロモーション展開がドッキング。お互いに相乗効果を生んでいってのヒットとなった。とくに、小林麻美のエレガントなイメージと、ガゼボの持つダンディなイメージがオーバーラップしたことで、全体として「オシャレな楽曲」という好イメージに結びつき、ヒットの規模拡大に寄与したと言えるだろう。
ただし、思わぬ副産物も生まれてしまった。それは小林麻美の印象・記憶が強過ぎたため、「アイ・ライク・ショパン」=雨の歌というイメージが色濃くついてしまい、梅雨の時期になるとリクエストが入るものの、それ以外の時期にはとんとお呼びがかからないという、ミスインフォメーションが起こってしまったのだ。以来、今日に至るまで、そのイメージは払拭できていない。
さて、「アイ・ライク・ショパン」の大ヒットで、大いに将来を嘱望されたガゼボだが、この曲以降は期待を裏切る実績しか残していない。これはなぜか? 「アイ・ライク・ショパン」ヒット中に来日を果たし、これから宣伝展開が本格化、本人稼働のプロジェクトもいくつか組まれていたのだが、イタリアの徴兵制度に引っかかってしまい、いちばん重要な時期に1年間の兵役に出てしまったのだ。赴任先の軍隊では、兵士の慰問に大いに役立ったというが、テレビ出演はおろか、電話インタビューやファックスによるインタビューなどの方法も封じられ、媒体への露出もかなわず、次第に人々の記憶からガゼボは消えていってしまった。もちろん、その後も作品の発表は続いたものの、「アイ・ライク・ショパン」並みのヒットは望むべくもなく、“一発屋”というありがたくない称号だけが残ってしまった。
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