1992年から93年にかけての全米ヒット・チャートを荒しまわったホイットニー・ヒューストンの「オールウェイズ・ラブ・ユー」は、彼女にとっていろいろな意味でエポック・メイキングなヒットとなった。ご存知の通り、ケヴィン・コスナーと共演、しかも初の主演映画となった「ボディガード」のテーマ曲である。
じつはこの「ボディガード」、当初主演が予定されていたのはダイアナ・ロスだった。ところが、ダイアナ・ロスは脚本の段階でヌード・シーンがあるという理由で出演を受けず、代わって白羽の矢が立ったのがホイットニーだった。当然、ホイットニーはヌード・シーンがあることを知っていて出演を承諾したわけだが、クランクインして問題のシーンの撮影日になるとヌードを拒否。出演辞退もあり得るという状況まで態度を硬化させた。映画製作側は、すでに半分以上のシーンを撮り終わっていたこともあって、ベッド・シーンはあるもののハダカはなしという、どこかの国のアイドル・タレントのような解決策を提示してこの問題をおさめた。しか〜し、ケヴィン・コスナーは「何様のつもりなんだ!」と激怒。以来、撮影現場で顔を合わせても2人はひと言も交わさなかったという。ホイットニーはこのとき、すでにボビー・ブラウンと結婚していて、ちょうどボビーとの子どもを妊娠したところ。まさかボビーがやめさせたわけではないだろうが、生まれてくる子どもに気をつかった結果なのかもしれない。
ちなみに、この映画の撮影に入る前、ボビー・ブラウンとの結婚の噂があがっている頃、その噂には根強い否定論があった。それは、“ホイットニーはレズだ”というもの。ホイットニーは「みんながゴシップを信じているなんてビックリ。最初に話を聞いた時はショックで傷ついたわ。でも私は噂が違うってことを証明しようとは思わない。みんな好きに言ってればいいわ」と、とりあわなかった。結局、ボビーとの結婚、妊娠で噂はあっけなく否定された。
また、「オールウェイズ・ラブ・ユー」のオリジナルはドリー・パートンだが、ドリーは映画のスタッフから「サントラに使われ、ホイットニーが歌う」と聞いて、快諾。完成を楽しみにしていたようだ。ただ、完成した曲を聴いてビックリ。「まさかこの曲の歌い出しがアカペラになるなんて、思ってみなかったわ。とっても新鮮だった。それにホイットニーの歌も良かったし、アレンジも気に入ったし、映画も良かったし…。それにも増して、大ヒットしてうれしかったから、ホイットニーにサンキュー・レターを書いたの。“多額の印税ありがとう”ってね」と、お茶目なコメントを寄せている。
さて、この曲は発売以来、順調にヒット街道を突き進んで92年11月にはNo.1となり、その後14週にわたってトップを独走。このヒットぶりとホイットニーの気合いの入った歌いっぷりで、93年度のグラミーではレコード・オブ・ザ・イヤーとアルバム・オブ・ザ・イヤーの主要部門2冠を達成。主要3部門では、彼女にとって初の受賞となった(87年、「すてきなSomebody」で最優秀女性ポップ・ボーカル賞を獲得している)。
この成功はホイットニーにとって大きな意味を持つものになった。というのも、この曲がリリースされる1年前の91年1月27日に行われたアメリカンフットボールの頂上決戦、第25回スーパーボールで彼女は国歌を歌い、ライブ・シングルまでリリースしたが、実は口パクだったという報道があり、その真偽が大問題になっていたからだ。ミリ・バニリ事件以降、口パクに対して神経過敏になっていたマスコミが大々的に取り上げ、ついにカリフォルニア州議会では「ライブ・コンサートにおける口パク使用の禁止」を条例として決めた。それが92年6月のこと。そう、ホイットニーは口パク問題で信用をおとしていたから、ファンの信頼を回復するチャンスが必要だったのだ。結果として「ボディガード」の大ヒット、「オールウェイズ・ラブ・ユー」のグラミー獲得は信頼回復のための最大の効果をあげることになったし、またこの後すっかり映画づいて女優としても輝くことになる彼女のキャリアを開いた重要な景気ともなったのだ。20世紀の最後になってマリファナ所持事件を起こし、ミソはつけたが、やはり20世紀を代表するシンガーであることは間違いない。
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