Vol.23  ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース「カップル・デイズ・オフ」 2010.12.18

サンフランシスコに根づいたロックと言えば、ジェファーソン・エアプレインやサミー・ヘイガーなどがあげられるが、人気、実力ともにベイエリアを代表するグループということになると、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースではなかろうか。1980年代後半においては、アルバム『スポーツ』が700万枚、『フォア』が300万枚の売り上げを記録。ベイエリア・ミュージック・アウォードの常連でもあり、サンフランシスコの地域振興にも貢献している功労者という点から見ても、ヒューイ・ルイスはNo.1の実績をあげている。

 

ところが、である。今回のピックアップ曲「カップル・デイズ・オフ」は、シングル・チャートにおいて11位に止まってしまい、この曲をリード・トラックとしたアルバム『ハード・アット・プレイ』はヒューイ・ルイス&ザ・ニュース史上、初のTOP10シングルを持たないアルバムとなってしまった。ここを分岐点として、彼らの人気は下り坂に向かうことになる。

 

「カップル・デイズ・オフ」のヒット状況は、ヒューイ・ルイスにとって様々なことをもたらした。クリサリス・レーベルからEMIに移籍したものの、第一弾であったこの曲がEMIの思惑を大きく下回る売り上げに終わり、結果EMIからは3枚のアルバム契約を残したまま離脱。代わって契約に名乗りをあげたのがエレクトラだったが、ロックンロールのカバー・アルバム『グレート・アメリカン・ソングス・トリビュート』が商業的に失敗し、エレクトラともケンカ別れ。結局、インディーズで活動することになったわけで、この曲が苦難の道のりの出発点でもあったということになる。

 

しかし、そのヒット規模のわりには、ヒューイ・ルイスの社会的活動は盛んだった。

サンフランシスコの身体障害者学校への寄付を目的とした“ブリッジ・ベネフィット”のコンサートはすっかり定着して毎年の恒例行事になっているし、エイズ・チャリティではサンフランシスコにあるボズ・スキャッグス経営の店“ブルー・ライト・カフェ”を会場に125万ドルという高額のコンサートを企画。アッという間に完売となり、ビッグなチャリティ・イベントとなったが、ヒューイはすべてノー・ギャラでチャリティに協力している。

さらにスティングの依頼による熱帯雨林ベネフィットでも高い入場料をとって少人数の観客相手のショーを行っているし、サンフランシスコ大地震の際にも救済ライブを行って、全額を市に寄付。復興援助に立ち上がっている。また、イラク・クウェート問題のためにサウジアラビアに向かう救援部隊を激励するためサンフランシスコ空港に出向き、数百名におよぶ軍隊全員にサインして無事を祈ったりもした。

91年10月のビル・グラハム死去に際しても、サンフランシスコ・ロック界の英雄をリスペクトし、その後数人のトリビュート・ライブなどにも積極的に参加している。ひと言で言えば、“いい人”なのだ。

 

ヒューイの“らしさ”を伝える面白いエピソードがある。

92年の来日コンサートを前に、日本のTVに彼が出まくったことがあった。バドワイザーが日本でのマーケット拡大を目的にアメリカを感じさせる人をイメージ・キャラクターにして日本向けのTV−CMを制作することになり、そのイメージ・キャラクターとして彼が選ばれたのだった。91年4月にリリースされた「カップル・デイズ・オフ」がこのCMによって再び盛り上がり、来日コンサートが盛況であったのは言うまでもない。

ジーンズのリーバイスのキャラクターに起用されたことでもわかる通り、ヒューイは日本人から見て、“最もアメリカを感じさせるアーティスト”のひとりであるのだろう。だからこそ、インディーズでの活動になってしまったものの、98年の大宮ソニックシティでのコンサートはアメリカン・ロック・ファンが大挙押し寄せて、大変な盛り上がりとなった。まさに、“ヒューイ・ルイスは死なず!”と思わせるコンサートだった。