思えば、アルバム『デンジャラス』からの先行シングルとして1991年にリリースされた、この「ブラック・オア・ホワイト」を頂点に、それ以降、マイケルは苦難の道を歩き始めることになった。
83年の『スリラー』、87年の『BAD』と、2作続いた超メガ・ヒット・アルバムのおかげで、マイケルは世界中の人々から関心を持たれ、ミステリアスなプライベート・ライフも相まって、ゴシップ・マスコミの好奇の目を浴び続けた。
真偽のほどはともかく、“鼻がとけていてそれを隠すために厚いメイクを施している”とか、“肌を白くする薬を常用しているせいで重病にかかっている”とか、“性的不能でエリザベス・テイラーとはセックスレス・パートナー”といった調子の報道が続いていた時期に発表されたのが、この「ブラック・オア・ホワイト」である。
アルバム同様、ビデオ・クリップにも“友人関係”にあったマコーレー・カルキンが出演し、話題性抜群のリリースだったことは間違いない。が、ビデオ・クリップ(マイケルがショート・フィルムと称する長尺のビデオ)の後半部分のマイケルのダンス・シーンのなかに暴力的な場面があるとか、ズボンのチャックを上げ下げする“性的”描写があるとイチャモンをつけられ、マイケルがマスコミを通して謝罪したり、クリップを編集して再リリースしたりと、のっけから出鼻をくじかれた曲でもあった。
それでも、シングルとしては1983年の「ビリー・ジーン」に次ぐ成功をおさめ、ビルボード誌のHOT100では7週にわたりNo.1を記録。“キング・オブ・ポップ・デンジャラス・ツアー”と銘打たれたワールド・ツアーも好調で、すべてのゴシップを抑え込んでスーパースター、マイケル・ジャクソンの存在をアピールすることに成功した。このシングルの成功が、続く「リメンバー・ザ・タイム」「イン・ザ・クローゼット」「ジャム」「ヒール・ザ・ワールド」「フー・イズ・イット」「ウィル・ユー・ビー・ゼア」へとつながる原動力にもなったのだった。
ところが、順風は長くは続かなかった。幼児虐待疑惑である。94年に裁判のほうは落ち着いたものの、このディスイメージはその後もつきまとうことになった。
ちょうど「ブラック・オア・ホワイト」がリリースされた頃、実兄のジャーメイン・ジャクソンが自らの曲のなかで痛烈なマイケル批判を展開し、話題になったことがあった。問題の曲は、アルバム『ユー・セッド』に収録されている「ワード・トゥ・ザ・バッド」。
タイトル通り“BAD”すなわちマイケルにもの申す内容になっている。いわく“自分のことしか考えず、自分の王座を守ることしか考えていない”、“自分の顔を変えようとしても、もう元に戻ることはできない”、“君はひとりぼっちのスーパースター”など、かなり激しい調子だ。
これを「ライフ」「ニューヨーク・タイムス」「デイリー・ニューズ」「ニューヨーク・トゥデイ」といった一流紙がこぞって取り上げたものだから、世界中がこの壮大な兄弟ゲンカを知るところとなった。
当のジャーメインは“現実が見えなくなったマイケルの目をさまさせてやりたかっただけで、家族の愛を修復しようとしてやったこと”と悪意がないことを強調したが、マイケルは“もはや家族のなかで味方はジャネットだけ”と、強く意識してしまったようだ(実際、マイケルの幼児虐待疑惑が報じられると、ジャネット以外の兄弟と両親はそろって批判的なコメントを寄せていた)。
何にせよ、幼児虐待疑惑以来、とくにアメリカのマスコミはマイケルに厳しく、その奇行への言及だけが悪意を感じさせるほどの論調で繰り返されて、結果として「ブラック・オア・ホワイト」級のヒットは出ていない。
ただし、ヨーロッパ、それも東欧での人気は今でもすさまじいばかりで、ツアーやCD、それにコンサートのライブ映像部門でもかなりの売り上げがあがっているという。「ブラック・オア・ホワイト」で唱えた人種差別撤廃のメッセージ。どうやら、アメリカ人には逆にはたらいてしまったようだ。
※この連載は2000~2002年に「mc elder」および「mc」で連載した内容を加筆/再構成したものです。