Vol.7 TOTO「アフリカ」 2010.08.29

日本では根強い人気を誇るTOTOも、アメリカではヒットの波に翻弄されてきた。

 デビュー曲の「ホールド・ザ・ライン」こそTOP5に入るヒットになったものの、その後3年間はヒットに恵まれず、しかし82年にリリースしたアルバム『TOTO IV』で爆発的な人気を獲得すると、その後は中堅バンドという評価で推移し、90年代はほぼゼロ・アクション。

 

 口の悪い評論家は「TOTOは『TOTO IV』だけの一発屋」とまで言う。80年代を代表するバンドであり、いまもコンサート集客やCD売り上げにコンスタントな実績を保っている日本から見れば、考えられないほどアメリカでの評価は低い。そのなかで唯一、シングル・チャートでNo.1になったのが、「アフリカ」であった。そして、TOTOのアメリカにおける栄光というのは、1983年2月23日のグラミー賞授賞式で極まった。ちょうど、この年の2月5日に「アフリカ」がチャートのトップを飾り、期待感が高まっていた時だった。

 

 でも、それまでの酷評を考えると、ノミネートされたことすら信じられないほどだった、とスティーヴ・ルカサーは回想する。実は、この年のグラミー賞“ベストR&Bソング”に輝いたジョージ・ベンソンの「ターン・ユア・ラブ」は、ルカサーとジェイ・グレイドン、ビル・チャンプリンという仲良し3人組の作品で、TOTOの面々に先駆けて、ルカサーはトロフィーを手にしていた。

 

 その授賞式を振り返って、ルカサーはこんなふうに語る。

 

 「会場に座っていながら、信じられなかったよ。だって、スティービー・ワンダーやポール・マッカートニーといった、オレたちのヒーローたちと対抗してるんだぜ。それに、ちゃんとタキシード着こんでたから、なんか妙な雰囲気でさ。で、テレビ放送されていない部分で、ベストR&Bソングのトロフィーもらっちゃってたから、“オレ、グラミーとっちゃったよ。信じられるか?”ってメンバーに言ったら、“ホントだな。オレたちがとれなかったら、おまえだけがすごいことになっちゃうんじゃないか”なんて言い合ってたんだよ。そしたらすごいことになっちゃって、なんか非現実的にすら感じちゃったよ」

 

 確かに、この年TOTOが獲得したグラミー賞はすごかった。“レコード・オブ・ザ・イヤー”と“アルバム・オブ・ザ・イヤー”の主要2冠に加え、ボーカル・アレンジ、インストゥルメンタル・アレンジ、レコーディング技術という、クロウト受けする3部門も受賞。そして、“プロデューサー・オブ・ザ・イヤー”もTOTO名義で受賞した。プロデューサー部門をグループ名義で受賞した例は後にも先にもないから、この年のTOTOがいかにセンセーションを巻き起こしたかがわかる。

 

 しかし、皮肉にもこの栄光が大き過ぎたためか、その後のTOTOは、ことアメリカのマーケットからは次第に忘れられていってしまった。ルカサーいわく、アメリカのレコード会社はまったくサポートすることもなく、その存在すら意識していないという状態。プレスからも酷評されていて、アメリカを代表するグラミー・ウィナーでありながら、現在のTOTOが活躍するフィールドはヨーロッパと日本ということになっているという。

 

 ところで、78年のデビュー当時、TOTOのグループ名の由来としてまことしやかにささやかれた“説”があった。それは、ボズ・スキャッグスのバック・バンドとしてデビュー前に来日したTOTOのメンバーが、日本のトイレに入るたびに“TOTO”の文字を目にして、“なんて有名なコトバなんだろう。それに響きもいい”ということでTOTOと名乗ることにしたというもの。

 

 その後、「オズの魔法使い」の犬の名前という説も出たが、日本のトイレ発祥説があまりにもインパクトが強かったため、この説をいまだに信じているファンがいるようだ。が、この説、まったくのデタラメ。当時CBSソニーのTOTO担当ディレクターだったO氏が、あまりにもあちこちから「TOTOって、どうして名づけられたのか? 意味は?」と聴かれたので、冗談まじりに先の説をぶったところが広がってしまったというのが真相だ。いやはやなんとも…。

※この連載は2000~2002年に「mc elder」および「mc」で連載した内容を加筆/再構成したものです。